教育を、考える。

先日CX(フジテレビ)系列で興味深い6時間生放送が放送された。
「たけしの日本教育白書2006」というこの番組は、昨年に引き続き企画されたスペシャル番組で、ビートたけし氏を司会に、爆笑問題の二人や久米宏石原都知事などが生出演。
昨年も拝見したが、今回は「品格」とは何か、ひいては「教育」とは何かに絞った構成で、大変好感を持った。
http://www.fujitv.co.jp/kyoikuhakusho/index2.html


まず評価されるべきは、NHKではなく民放でこのテーマの番組を6時間も、しかもこの時間(18時から24時)に生放送した点。
番組内で太田氏も触れていた「低俗な」バラエティのイメージが強いCXだが、実は毎週日曜昼放送の「ザ・ノンフィクション」など、定期的にドキュメント番組を制作していることは意外に知られていないかもしれない。
(実際、番組内で取り上げられた司馬遼太郎氏のくだりは、以前「ザ・ノンフィクション」で放送されたものの一部抜粋であった)
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2006/06-031.html
反省点はあるにせよ、たけし氏と太田氏によるウィットに富んだ表現(放送事故とも言う…笑)で、堅苦しい内容を解きつつ(このあたりこそ、CXの「良質な」バラエティ制作能力だと個人的には思っている)、出演者それぞれが大真面目に議論していたように思えた。


6時間通して思い直したことは、やはり教育の基本が「家庭」にあるということ。
教育の崩壊は、いわば、家庭の崩壊だということ。
そうだとすると、子供に教育という前に、両親に「母」と「父」の自覚を教育することが、重要課題のようにも思う。
今回のような番組を見させて、家族で徹底議論をさせる親子学級のようなものが半ば強制的に必要ではないか。
給食費を払えるのに払わない両親など、親の資格無し。
しかし、資格はなくとも親は親。それが問題だ。


もう一つ。では教育の基本で教えられるべきこととは何か。
番組では「品格」という言葉で語り始められたが、結局のところ、司馬氏の言葉を借りれば「自己の確立」であって、それはつまり、「他人」を思う想像力、いたわり、思いやりという心の教育である。
「いたわりの心は本能ではない、教育されるものだ」という司馬氏の着眼点は、注目に値する。
自分とは「他人」との関係でしか存在しえないのである。
「他人」を思えなければ、自分を知ることは一生無いことを、教育しなければならない。
番組内で「死んでも数日後には生き返るかも」と本気で信じる子供たちの言葉に、私は愕然とした。
と同時に、これが現場で起きている現実だとも思い知らされた。


「想像力」の欠如が、大問題を起こしている。
いじめの相談をすれば、両親や友達に迷惑がかかると思って自殺を考える少年たちには、自殺をしたらその何百倍も迷惑がかかることを想像してほしい。
今もなお自分の保身のためにいじめを続ける少年たちには、その行為が自らの死をもってしても償えない大罪であることを、想像してほしい。
そうすれば、今自分が何をしなければならないか、その行動への「勇気」が沸いてくるはずだ。
そこから初めて品格という言葉が、礼節という言葉が、我慢という言葉が出てくる。そしてようやく、自由という意味が分かるはずだ。
これは愛国心を養って国歌を歌ったから解決する問題ではない。


問題教師の存在と、昨今のいじめ問題は混同されてはならない。
前者は組織の問題、後者こそが教育の問題である。
文科省は硬直した教育組織の問題をまず、解決すべきである。
多くの良識ある先生たちは、一生懸命後者の問題を解決しようと努力しているのだから、そのサポートに徹するべきだ。
馬鹿親の給食費滞納問題で先生が死ぬほど悩んでいるなんて、こんな馬鹿げた話は聞いたことがない。
そんなものは法的処置で文科省が強制徴収するべきだ。
問題教師と馬鹿親には強制力をもって、国が対処すべきである。
逆に言えば、国や学校の責任はそこまでであり、教育の責任とは、一義的には言うまでも無く、両親にある。
校長先生が自殺するなんて、本末転倒だ。


…それにしても教育基本法改正にご熱心な安倍ちゃん、番組見てくれたかな?