誰かの何気ない一言が、僕の自信となる。

NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」の冒頭部を拝見。


公立中学校の選択制を導入した地区で起こる、学校格差の問題。
勉強の出来る子と出来ない子の差が広がる、学級内格差の問題。


振り返って中学時分を思い出してみる。
中学くらいまでは進学塾に通ってたので勉強も得意だった。
先生に代わって、みんなに教えてたりもした。
そりゃそうだ、塾で1年先のことを習ってるんだもの。
教えられない方がおかしい。


ただ一方で、体育の時間は地獄だった。
何をやってもクラスの中でビリっ尻。
走ってもダメ、飛んでもダメ、投げてもダメ。
別にみんなから運動できないって、脅されるわけでも、からかわれるわけでもない。
サッカーでもバスケでも、ボールが回ってこない。
つまり私は、そこらの石ころ同然。
いてもいなくてもどうでもいい、存在しない、存在。


だから授業が簡単すぎてつまらない子の気持ちも、出来なくて置いてけぼりにされる子の気持ちも、何となく分かる気がする。


尼崎の先生は、出来ない子に補習するばかりでなく、授業中もペースを落として、その子に付きっ切りで教えてあげていた。
悪くはないと思うが、出来る子にすれば、あまりにも無駄な時間を食っているように思えてしまう。


私は授業そのもの、というより、学校そのものが、みんなで作り上げられるものであれば良いと思う。
何も先生一人で授業のすべてを作り上げなくてはならないわけじゃない。


たとえば出来る子が出来ない子に、自分の得意技を見せてあげるきっかけがあればいいと思う。
たとえば出来ない子が出来る子に、どうして楽しく問題が解けるのか聞けるきっかけがあればいいと思う。


私なんか不器用だから、だいたいボールが転がってきたら、右足で蹴るか左足で蹴るかどっちなのかすら判断できない。
でも「そんなのどっちでもいいじゃん、ただこういう風にしたらもっとカッコよく蹴れるよ!」なんて言われた記憶がない。
蹴れないし、誰もが無視するもんだから、もう、蹴ることをやめてしまう。


社会なんて、どうせ寂しいところである。
「格差」なんて、どこ歩こうと、あって当たり前だ。
平等社会なんて実現しっこないから、平等社会という理念が生まれるわけだ。


でもね。
学校くらいは、もっと相互に助け合う精神があってもいいんじゃないかと思う。


やっぱクラスにゃカッコ良くボール蹴るヤツいたよ。
そういうの見て、あーいいなあって思ったよ。
もし彼が一度でも私にボール蹴ってくれたら、どんなに嬉しかったかなあ。
逆に勉強出来ない子に数学の公式を説明し、理解してくれたとき。
あんまり上手く言えなくて回りくどい説明しちゃったけど、どんだけ嬉しかったっけね。


ちょっとダメなところを、あいつダメだからほっとこう…なんて言わず。
もし僕ができるなら、あいつをちょっと助けてやろうか(…えっへん!)という、お節介。


どうやって助け合って生きていくか。
別に中学生だけじゃない、今社会全体に問われている問題だと、私は思う。