機微のある人生

入梅したのに鮮やかに出でる朝日を見上げ、誰もいない早朝の静けさ、マンションの片側を薄赤く照らす美しさに、溜め息をつく。
道すがら、傍の石垣から覗く紫陽花や、畑を耕す老婦の姿は、私に何も語らない。


今一つ、私が大きく悩めるのは、この目や耳や肌から受け取った感情を、出来る限り減衰することなく誰かに伝えられぬことである。
否、たとえ減衰しても良い、その何万分の一でも構わない、どうやってもこの思いの源泉を、一生誰にも伝えられぬのではないかという疑念である。


文才も楽才も画才も足りない身としてはせめて弁才を、と最後の望みを託しても、想いを詰め込めば詰め込むほど一方通行となりすれ違い、曖昧にすれば伝わってなんかいないのに伝わったかのような根拠のない出鱈目の安心感に包まれるだけで、空虚である。
知らぬ間に傷ついて、意図もないのに傷つけて、何とか伝えたい気持ちと、そのために起きる多大な迷惑にただ申し訳ない気持ち、その両方とも偽りのない感情が、この何度も書き直してはみるけれど途方もない文章でどれほど伝わるというのか。


いっそのこと空虚なら空虚でいいではないか、最終的にそういう諦観しかないことも理解し、そつなく実行している自分がいることもまた、空虚である。
過去と同じようにまた、自分自身を見捨てるか、他人とは訣別するか。
しかしそういうことはもうしないし、できない。


誰も分かってくれぬという恐怖。


この恐怖を超克するには、傷ついて傷つけて、お互いの傷を舐め合わぬ修羅場を生き抜くしかないのか?


誰かを分かろうとする幸福。


それがなかったなら、人は生きられるのだろうか?