またね。

先日、数年ぶりに映画を見に行った。
桑田さんの「風の詩を聴かせて」が主題歌となっている「Life 天国で君に逢えたら」というノンフィクション映画。
http://www.life-tenkimi.jp/

飯島夏樹さんという実在のプロウィンドサーファーの物語だ。
彼は末期の癌と闘いながら、迫り来る死に怯え、どうしてよいか分からない家族に喚き叫び、でもしかし、共に強く生きようとする妻と子供達を見て、最期まで生きようとした。
実際に、最期の最期まで家族と生き抜いて、死んでいった。
見ていて悲しかったけれど、何か心のどこかが勇気付けられた。

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私は先日祖母を亡くしたばかりなので、これまで良く分からなかった人の最期を考えることが多くなった。
祖母は死ぬ直前まで、私をはじめ、たくさんの家族に見守られながら、死んでいった。
死んでからも、たくさんの人がお葬式に駆けつけて、最期、荼毘に付された。

生きるってことの意味を、私は「死ぬ」と対比して捉えようとしていたのだけれど、どうもそういう単純な話でもないかなと最近考えている。

祖母が死んで、棺に入れるとき、葬儀屋の方が祖母に杖やら六文銭(を書いた紙)を家族に渡して入れるように指示した。
祖母が独りで無事に三途の川を渡って、あの世へ行けるように、杖やらお金を渡すのだそうだ。

「そうか、(今、棺の周りを私達に囲まれているけど)おばあちゃん、独りで渡っていくんだ」

と、そのとき初めて思った。

確かに最期の最期、たった独りで焼き場の門の奥へと、旅立っていった。

飯島夏樹さんも、死んだその瞬間、独りであの世にいった。
家族に見守られながら病に悩み苦しみ闘い抜いたけれども、死んだその瞬間、恐怖に打ち勝ち、果敢に独りで旅立った。
奥様もまた、気丈に愛する人を送り出していた。

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「私のお墓の前で泣かないでください」

と美しい旋律で歌う歌がヒットした。
私は個人的にあの歌が大好きだ。

でもあの歌は、死んだ人が風になって生き続けると歌う。

もちろん科学的にそんな訳はないし、ある仏門の方がこういった精霊的(シャーマニズム)な幻想がまかり通るのは仏教徒の努力の足りなさ(仏教では三途の川のように、生死の区別をはっきりつけることが重要視される)と以前朝日新聞で語っていたけれど、物理学的・宗教的観点はともかくとして、愛する死んだ人と心の中で一緒に生きていく、という気持ちは、どんな時代であれどんな国であれ、広く一般に自然な気持ちだと私は思う。

でもその気持ちは、死んだ人の気持ちではなくて、今生きている人の気持ちだとも思う。

「嗚呼、あの人は死んでも(生き返る訳がなくても)、私はあの人なしでは生きられない」

非情かもしれないけれど、そこで見るべきは、誰かが死んだことより、「今、私が生きていること」の重要性なのかもしれない。

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生きることの意味を、考えてみる。

「何人にも侵されない、個人の自由(個人の尊厳)」

平和憲法は謳うけれど、その守られるべき絶対的自己とは相対的自己たるための他人がいなければ「脆くも死んでしまう」、そういう弱いものであると私は思う。

飯島夏樹さんには心強い妻がいた。子供がいた。
でももし誰一人として彼の周りにいてくれなかったとしたら、どうだったろうか。

祖母もたくさんの人に看取られた。
最期、自分の子供や孫とバイバイできたことは、私も父もきっと祖母も幸せだったのだと思う。

ひとりぼっちの老人が、誰にも知られず、死んでいく。
孤独死という言葉が、最近新聞にも見られるようになった。

誰にも相手にされず、誰にも相談できず、またあるいは、自らで他人を遠ざけたりもして、己の命を絶つ人が年間、何万人もいる。

本当に本当に独りっきりで生きている人がいるのも、また事実だ。

でもそれが、生きていると言えるのだろうか。
もしそんな人がいたら、人は簡単に見捨てておけるのだろうか。
それでも生きている人にとって、生きているとは、何なのだろうか。

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生きると言うことは、誰か(何か)と関わっていける(かもしれない)という希望のように、最近は考えている。

それは愛する人でもいい。そうじゃなくてもいい。

そして命尽きる時とは、その誰かとの永遠のお別れ。

絶対に「またね」が出来ないから、今私は生きようと、きっと思う。
悲しいけれど「またね」を言えなくて、死んでいくのかもしれない。

「誰も一人で死んでゆくけど、一人で生きてゆけない」

と口ずさむ歌が昔から好きだったけど、この言葉の重い意味を、飯島夏樹さんの映画を見て、ちょっと間を置いて、実感した。