自分のことのように他人を慈しむこと

が世の中で一番大事で有難いことなのかな…と思う土曜の深夜。


去年の「たけしの日本教育白書」を見て書いた自分のブログや、今晩の同放送を見返してみると、やっぱり「自分と他人」との関係にすべてがあるように思えてならない。


親も友達も信じられない、と平然と語る子供達(もちろん子供達全員の意見ではないだろうけど)にとって、信じられるのは自分だけ、と思っているのならそれは違うよ、と話してみたい。
たとえ、お節介と言われても、話してみたい。
自分しか信じられないんじゃなくて、自分を信じ「られ」ていないから、他人を信じられないんだと。


だって私の愛すべき大概の人達は、まー何より自分が大好きだもの(笑)


まずは自分を信じ「られ」なきゃ。
そうじゃなきゃ、この世で生きとし生けるものに申し訳ない。
だって生きていた動物植物を殺し、そうやって誰かが用意した食材を調理し、食べて味わって、生かしてもらっているんだもの。
今日も生きられてありがとう、と思えられれば、自分を信じなければ申し訳ないという気持ちにつまされるってもんだ。


もし自分を信じ「られ」なきゃ、5日間くらい何も食べなきゃいい。
腹が減って減ってのた打ち回るだろう。
わざわざ断食して、生きられる喜びを確認する教えだってあるくらいだ。
電車になんかに飛び込んだって、その有難みなんか分かりゃしない。


自分を信じ「られ」たらようやく、他人のことに頭が回る余裕ができるってもんだ。
あの人もまた、自分と同じ人間なんだ、生かされているんだと思え「られ」たら、しめたもんだ。
そして今度は、もし誰かを自分のことのように大事に思え「られ」たら、きっとそのとき初めて「アイ」を知り、人生がものすごく楽しくなるんじゃないか…と私は思う。


まだ、私はそこまでの境地に行ってないけど。
たぶん、こんなプロセスで、人は大人になって、人を愛し、そして死んでいくんじゃなかろうか。


…なんて、思い付きを忘れないうちに書いてみる。