メディアリテラシーを考える。

事件の展開はともあれ、いずれにしてもいつか書こうと思っていたので、今日書いてみる。

問題なのは言うまでもなく、被害者を加害者のようにミスリードした一連の報道現象であり、それを大衆がどう受け止めたかである。

以前より申し上げている「メディアリテラシー(情報を評価・識別する能力」)」の欠如、という問題である。

今回の件では、ある芸能人が活動自粛に追い込まれた。
http://news.livedoor.com/article/detail/3401854/

自分のブログにどうこう書くことが、直接的な問題ではない(もちろん問題が全くないとは思わない)。
しかしことさら問題なのは、自分の目の前にある情報に対して、どのように接しているかという態度そのものである。

松本サリンダンボール肉まん、あるある大事典、古くは関東大震災時の朝鮮人流言虐殺など、僕らは「情報」の性質に対してあまりにも無知であり、同じ過ちを幾度と繰り返している。

私はマスコミを信じるな、誰も彼も疑ってかかれ、と言いたいのではない。
むしろマスコミの言っていることは、私が(あるいはあなたが)明日誰かに発する言葉と同じくらいの信憑性でしかない、ということである。
明日あなたは誰にも一言も嘘をつかないと、言えるだろうか?
上司やお得意先の前ではおべんちゃらの一つも使うだろう。
所詮あなたの目の前にある情報とは、その程度の、信憑性である。

つまり、本来情報とは、その程度のものである、ということを僕らは理解しなければならない。

もっともらしそうな人が、もっともらしいことを言う。
「人は見た目が9割」なんて言葉があるが、それは確かに事実かもしれない。
しかし人は見た目が9割、ということは逆を言えば、人は1割も「見た目通りではない」ということであり、そちらの方が重大である。

どんな情報であれ、情報とはその発信者と受信者による(それが故意であるかどうか・またその大小は別として)何らかのバイアス(偏向)がかかったものであるが故に、それを「どう捉えるか」という「訓練」を意図的にしなければならない、と私は常々考えている。

情報を受け取った自分が、意識しなくても自分の「都合の良い」ように解釈し、他の人に託(ことづ)ける。
そうやって伝わる情報は有為であり、しかしそうであるが故に、生来的に極めて脆弱なのである。

他人の言うこと、いや、自分の言うことでさえ、その意味と意義をどれだけ理解しているか。
ほとんどの場合ほとんど理解していないのが、事実である。
今日のトピックで言えば、大臣が宴会に行ったか行かないかが問題なのか、本当にそうなのか、ということである。

地球上に60億人いれば、1つの事実に60億通りの解釈があることを、私の言う「青」とあなたの言う「青」が必ずしも一緒の色とは限らない事実を、僕らは認識しなければならない。