夢とセンス

これまでいろんな人と出逢ってお話してみて、その人の持つ「センス」と言うものは、極めて先天的なもの(が多くを占めている)と思う。
それぞれが、生まれながらに持った能力。
歌が上手いのも下手なのも、顔が綺麗なのもあんまり(笑)なのも、運動が得意なのも音痴なのも、手先が器用なのも不器用なのも、服選びがキマってるのもダサいのも、計算が得意なのも苦手なのも、絵が上手なのも下手っぴなのもみんなみんな、基本的にはその人がそれに向いているかどうか、という「センス」である。
そしてこのセンスというものは、自分が好きであるかどうか、とは質的に違うように思う。
昔から「好きこそ物の上手なれ」っていうくらいだから、確かに努力して上手にはなれるけど、それが向いているかいないかは哀しいかな、少し性質の違うもののように感じる。


それで、人にはそれぞれ、自分の夢があると思う。
夢とは、自分の好きなこと、それを実現したいと思う気持ちだ。
でも、その夢が、自分のセンスと向いているかと言えば、必ずしもそうではない。


先日、私の好きな3ピース・ロックバンド「チャットモンチー」のメンバー高橋さんが、あるテレビにて「やりたいことが変わることもあるんやなと思いました」というステキなことを言っていた。


小さな頃からずっと教師になることを目指していた高橋さん。
教育大学まで卒業し、そこでふと、橋本さん・福岡さんと一緒にバンドをやりたいと思ったそうだ。
教師を諦めた、のではなく、それよりも大きな夢が生まれた瞬間だったのかもしれない。
そして、今のチャットモンチーがある。


…自分の夢と、自分のセンスがふわっと重なると、ものすごい奇跡が起こるんだ!!


たとえ奇跡なんか起きなくても、世間から評価されなくても、一生自分の夢を追い続ける人もいるだろう。
夢がたくさんありすぎて、あるいは、1つも夢なんか無くったって別に、死にやしない。
その人が「幸福」かどうかは、また別の話である。


ただ、人には誰しも(1つだけとは限らない、しばし複数の)センスがあると思う。
その人にしかないセンスが少なくとも1つは必ずある、と私は今までの人生で実感する。


夢とセンスが重なる偶然。重ならない偶然。いや、偶然ではなく必然か。
人の宿命(さだめ)とは、そういうものかもしれない。