死刑判決

今日はたくさんの方が、死刑制度について考えられたのではないでしょうか。


BPO放送倫理・番組向上機構)の意見が発表されてから
http://www.bpo.gr.jp/kensyo/kettei/k004.html
マスコミやそれに参加する文化人も、自らの報道姿勢に少しずつ変化を加えているように思います。


被害者ご遺族である本村洋さんの会見を見るに、本当に立派な人だと感じました。
こういう立派な方が、法務大臣をやれば良いのに…と。


さて、死刑制度の賛否を考える以前に、罪を犯した者に与えられる「罰」というのは、何なのかを考えます。


三省堂大辞林によれば、「罰(ばつ)」とは…

社会的規範を犯した者や倫理的・宗教的規範に背いた者に対して与えられる制裁。

であって、「制裁」とは…

社会や集団の規則・慣習などにそむいた者に加えられるこらしめや罰。

と、また罰が出てくるので堂々巡りの感もありますが、もう少し根気良く、「こらしめる」とは…

悪いことをした人に罰を与えて、二度とするまいという気持ちにさせる。

ということのようです。


ちなみに同じ漢字でも「罰(ばち)」と読むと…

神仏が下す、悪事をこらしめるための報い。たたり。

と書いてあります。


ここから推測するに、罰には第一義的に「悪いことをもう二度とさせないという気持ちにさせる効用」が求められているようです。


しかしながら、我々はもう一つの効用も、経験として知っているはずです。


すなわち「悪いことをした人への仕返しとして(主に悪いことをされた)人の気持ちを慰める効用」であります。


家族を殺された人から見て、犯人を殺してやりたい(≒死刑にしたい)気持ちというのは、感情論として整然と、私は思っています。


しかし論理的には、おかしな話です。
犯人を殺して、殺された人が生き返るなら誠に論理的ですが、もちろん被害者が生き返るわけはなく、生き返るどころか自らも犯人を殺してしまう(死刑の場合は犯人の死のキッカケを作ってしまう)わけですから、全く持って非論理的です。
むしろ、犯人を永久に働かせて、慰謝料を未来永劫払わせ続ける、という方が論理的であります。


また罰の第一義的な「悪いことをもう二度とさせないという気持ちにさせる効用」というものに、死刑は論理矛盾をはらんでいます。
犯人が死んでしまっては、二度とさせないという気持ちにさせることはできません。


さらに本日伝えられたタクシー運転手殺人事件の被疑者は、「死刑になりたかったので殺した」と罰を求めて罪を犯すという本末転倒な論理を現実化してしまいました。


…といろいろなことがあれどしかし、感情論として、犯人をとっちめたい、そうでもしないと被害者の遺族や世間はやってられない、というのは誠に正論です。


今回の問題、というより、法治国家の抱える最大のテーゼはつまるところ、感情と論理の折り合い、なんだと思います。


私の結論から申すに、感情をコントロールするために、論理があるんだと思います。
つまり感情が先に立って、後から論理がついてくるということです。
時間軸として逆は、基本的に成り立たないと思います。


法体系は、論理の集積です。
まず人間の営みがあって、高ぶったり静まったりする感情の歴史がまずあって、そこから積み重ねてきた英知です。


人として生きるために、人が不条理とぶつかったときにどう対処していくかを、話し合って決めるためのルールが法体系だと思い、その話し合いこそが裁判だと思います。


そのルールを破った人が報いる罰の第一義的な「悪いことをもう二度とさせないという気持ちにさせる効用」は、ルールを守って法治国家を維持していくにおいて、最重要な意義を持ちます。


が、しかし被害者やその遺族にとってみれば、加害者がもう二度と悪いことをしないと思うかどうかという問題よりも何よりも、まず第一義的に「この責任はどうとってくれるんだ」という感情の方がはるかに大きいわけです。


問題は、ここにあります。


法治国家の維持とは全く無関係の、でも人間生活においては最重要な感情が傷つけられているわけです。
法治国家は、この点にどう応えるのでしょうか。
応えなくてもいいのでしょうか。
…もちろん良いわけありません。
法治国家とは、そこに生きる人間の生活のためにあるわけですから。


とそんなわけで先述したように、法体系はまず人間の営みがあって、高ぶったり静まったりする感情の歴史がまずあって、そこから積み重ねてきた英知なわけですから、この被害者やその遺族の感情の高ぶりに応える義務があります。


その意味で、現代の日本国には死刑制度が法体系という論理の中に維持されているのだと私は理解します。
人間生活は、論理よりも感情が先にたつ、ということです。


私はこの点は素直にその通りだと思っています。
経験上、論理が先にたった案件は、だいたいが良くないし(この一文はまったく私の感情論なので、気にしないで下さい…笑)。


ただし、感情が先にたったときの、止め処も無いパワーには用心しなければなりません。
先の戦争はそのようにして生まれたのであります。


感情と論理の衝突。
これを繰り返して、法治国家は悩みながら歩み続けるしかありません。


PS
一つ、参考となる文章を見つけましたので、該当URLを付記します。
http://mainichi.jp/life/edu/sodachi/