再帰的頭字語

という言葉があります。
「VISA」というクレジットカードがありますが、この名前は「Visa International Service Association」の頭文字を連ねたものです。
「…あれ、そしたらVisa International Service Associationの中に出てくる『Visa』は何の略?」ということになりますね。
そういう言葉のことであります。


理屈っぽい私は、この再帰的頭字語が気持ち悪くてなりません。
前例で言えば、どこからVisaの「V」という言葉が出てきたんだということを考え出すと(だってVじゃなくたってAでもBでもCでも別にいいわけじゃないですか、なんでVなんだよ〜)、気になって寝られなくなる性分です。


翻って自分自身のことを。
「自分って一体何者なんだ?」
「自分って何で生きているんだ?」
というような思いに駆られたことは、誰しも一度はあるんじゃないかと思います。
私も何かふさぎ込んだり、心が屈折してたりすると時折考え込んじゃうことがあるんですが、そういう風に悩みこんでいる自分が対峙しているものというのが、まさに自分だと思うわけです。
今悩み苦しんでいる自分足らしめるものは、いったい何か。それは今の自分である。
これじゃ全く解決しないわけであります。
気になって寝られないどころか、頭痛まで催しそうです。


私が勝手に尊敬している鷲田清一大阪大学総長は、著書「じぶん〜この不思議な存在」にてこの問題に一つのヒントを提示してくれています。
「自分」とは「自分」の中にはないものである、と。


じゃあ今このあらゆることに苦悶する自分の存在とは一体何処に「よりどころ」を求めればよいのか。
それがすなわち自分ではないところ、「他者」であるということです。


もっと言うならば、自分というこの肉体は、そんなにも確からしいことがいつ何時、あったのかと。
今この時点で構成している私の肉体と、今日寝て明日起きたときの自分が何故同じ「モノ」だと言えるのかと。


現に、新陳代謝を繰り返し、髪は伸び髭は生えトイレに行き用を足し美味しいものを食べて異物を体内に吸収しているその時点で、昨日の私の構成物質と明日の私の構成物質は分子レベルで明らかに違います。
今髪の毛一本引きちぎった瞬間、その髪の毛は「私」ではなくなるわけです。それまでは私の一部だったのにも関わらず。


じゃあ私というのは何なのか。
どこからどこまでが私のなの?


その答えこそ、常に変化進化退化する私の「中」にあるはずもなく、私の「外」にある「他者」でしかなくなります。


ということは、です。
「他者」が分からなければ「自分」なんて分からないってこと?


…残念ながら真実はその通りのようです。
残念ながら、というのは、自分より他人なんてもっと分からないから、であります。


何か困難に躓いたとき、私は「自分との会話」をしがちです。
「あれはこうじゃないか、いや違うな、きっとこうだろう」
…なんてことを、私は数分前にもやってました。


これをモノローグ(独白)と称すなら、自分ではなく「他人との会話」はダイアローグ(対話)と呼べるでしょう。


なぜ私は、今こうして文章を打って他人に公開しているのか。
それもまた、独白ならぬ対話をしてみたいからだ、と悩める私の心が外に向かって叫んでいます。